「反転可能性テスト」を知っていますか?
ネットで議論、特にジェンダーやフェミニズム絡みの議論が行われる際に見かける「反転可能性テスト」をご存じでしょうか?
ある命題が正しいか検証するために、「反転」して考えてみよう、「反転」した結果おかしな命題になってしまうなら、「反転」前の命題もおかしいはずだ、といった概念です。
パッとググったところだと、個人のブログやTogetterで語られている話題しか見つかりませんでした。もしかすると、学術のフィールドで意味の定まった言葉ではなくお上品なネットスラングの一種なのかな? という気もします。
もしも「反転可能性テスト」が正式な用語でないのであれば、なおのこと強く主張したいのですが、今回言いたいことは記事タイトルの通りです。
「反転可能性テスト」は、名称からでは無駄に意味が分かりにくく、健全な議論に使いにくい。「根拠チェック」「前提チェック」「原則チェック」あたりに呼び方を変更すべきである。
- 「反転可能性テスト」を知っていますか?
- 反転可能性テストの例
- 「反転」という語彙の不明瞭さ
- 「論証」の構成から分かる「正しい『反転可能性テスト』」
- 「反転可能性テスト」より「根拠チェック」「前提チェック」「原則チェック」あたりに呼び方を変更すべき
- 終わりに
反転可能性テストの例
反転可能性テストの例として見覚えがあるのは、こんな例です。
- 女性のバストを「性的に誇張」したイラストが街中にあるのは、女性にとって性加害と言える。
- 反転して考えれば、男性器を「性的に誇張」して異様にもっこりさせたイラストが街中にあったら、男性にとっての性加害となるはずだ。
- 以上より、「性的に誇張」された女性のイラストが街中にあるのが、女性に対する性加害であることは明らかだ。
別の例も。
- 女性より高い男性の自殺率を改善しても、女性には何の利益もないから女性が協力する必要はないという主張がある。
- 反転して考えれば、女性が痴漢に遭う件数を減らしても、男性には何の利益もないから男性が状況の改善に協力する必要はないということになる。
- 以上より「女性が男性の自殺率改善に協力する必要はない」という主張は不当である。
私が「反転可能性テスト」の実例を見かけるのは、男女の不平等を扱う議論ばかりですね。
「反転」という語彙の不明瞭さ
「反転可能性テスト」の例を二つ挙げて見ましたが、あなたはそれぞれの例を、どう感じたでしょうか。
「分からない」という感想でなければ、
「納得した」
「自信はないが、正しいように感じた」
「自信はないが、誤っていると感じた」
「論理の不備を見つけた」
のいずれかだったはずです。
上記二例に対する私の見解は、記事の最後で語ることとしましょう。
これらの「反転可能性テスト」の例が、分かったような分からないような感じになってしまう重要な理由は、反転可能性テストにおける「反転」とはなんぞやという定義が、まったくなされていないことにあります。
正しくなさそうな「反転」の例
「公平であり正しい意見ならば、『反転』しても正しいと感じるはずだ」
「『反転』した結果、正しいと感じられない意見ならば、元の意見も正しくないのだ」
というのが、「反転可能性テスト」の効能であるはずです。
では、このような「反転」はどうでしょうか?
- 「司法機関」が、「罪を犯した人間」を裁き、懲罰を与えるのは正しいこととされている。
- 反転して考えれば、「罪を犯した人間」が「司法機関」を裁き、「司法機関」に懲罰を与えるのも正しいということではないか。
- 反転結果が正しくないのであれば、反転前の「司法機関が、罪を犯した人間を裁くこと」も正しくないということではないか。
これは「いや、そうはならんやろ……」という感想を持つ方が大半のはずです。「なるほど! 納得した!」という方がいたら、ちょっと不安になります。
「みぎうえ」の反対は? 「いきなりステーキ」の反対は?
ここで問題です。
「『みぎうえ』の反対は何でしょう?」
5秒だけ、あなたなりの答えを考えてみてください。
一番多くの方が考えた「正解」は、『ひだりした』ではないでしょうか。
これはまず、正解と言って良いでしょう。
しかし、他にもこんな「正解の反対」があります。
- ひだりうえ
- みぎした
- えうぎみ
『みぎうえ』の反対が複数考えられるのは、「『何を基準に』反対にするか」によって、行く先が異なるからです。
- 「自分」という点を軸に「反対」にすると、『ひだりした』になります。
- 「自分」の正中線を軸に「反対」にすると、『ひだりうえ』になります。
- 床や地面を軸に「反対」にすると、『みぎした』になります。
- ことば・文字の前後の軸で「反対」にすると、『えうぎみ』になります。
出題者が「何を基準に」反対にするかを定めていないなら、どれも正解と言えます*1。
ネットで「『いきなりステーキ』の反対は?」という大喜利を見たことがあります。
これに対する答えのバリエーションは、まさに「どこに軸を置くか」によって生まれます。
来ない生肉
- 「いきなり(短時間)」の反対を「来ない(長時間)」と置く
- 「ステーキ(加熱調理済み肉)」の反対を「生肉(加熱されていない肉)」とする
チキンソテーばいばい
- 「いきなり」と「ステーキ」の語順をまず反対にする
- 「ステーキ(普通は牛肉)」の反対を「チキンソテー(鶏肉)」と置く
- 「いきなり(接近してくるニュアンス)」の反対を「ばいばい(遠ざかっていくニュアンス)」とする
お待ちかねの刺身
- 「いきなり(予見していない、その場で現れる)」の反対を「お待ちかね(予見し、期待し、待った後で現れる)」とする
- 「ステーキ(加熱調理済み牛肉)」の反対を「刺身(加熱していない魚)」とする
「お待ちかねの刺身」は、当時実際に見た、秀逸な回答です。
反転した感はありながら、めでたくておいしそうですよね。
他にも、「ステーキ」の持つ「ごちそう」のニュアンスを反転してみたり、「かたまり肉」のニュアンスを反転してみたり、「反転」の方向性は無数に考えられます。
「反転可能性テスト」を機能させるために不可欠なこと
反転可能性テストにおける「正しい反転」「議論の役に立つ反転」が何か知るためには、どのような基準で反転するのが正しいのか曖昧にせず、明示する必要があります。
この「正しい反転の基準」こそが、「根拠」「前提」「原則」なのです。
「論証」の構成から分かる「正しい『反転可能性テスト』」
論証の構造と、正しい「反転基準」
以前、「論証」とは何かを記事にしました。
「データ」「根拠」の複合として「結論」が導かれる、というものです。
これは、私が勝手に定義したものではなく、「トゥールミンモデル」として世の中で認められています。
「正しい反転可能性テスト」で何をしているかというと、「同じ根拠を、他のデータに適用しても妥当か」確認しているのです。
「正しい反転可能性テスト」の例
「彼氏が彼女を殴るなんて最低!」という主張があったとします。
反転してみましょう。
「彼女が彼氏を殴るなんて最低!」と反転することができました。
この反転結果には、「そうだね」と合意する人と「そうではない」と考える人がいるのではないかと思います。
「そうだね」と思う人の考える「根拠」
「彼氏が彼女を殴るなんて最低!」だし
「彼女が彼氏を殴るなんて最低!」と考えている人が、どんな思考をしているかシミュレートしてみます。
- データ:彼氏が彼女を殴った(という仮定)
- 根拠 :暴力を振るうのは最低である または 交際相手に暴力を振るうのは最低である
- 結論 :彼氏が彼女を殴るのは最低である
このような「根拠」を採用するならば、データにおける「彼氏」と「彼女」を反転しても、同じような結論が導けるはずです。
- データ:彼女が彼氏を殴った(という仮定)
- 根拠 :暴力を振るうのは最低である または 交際相手に暴力を振るうのは最低である
- 結論 :彼女が彼氏を殴るのは最低である
反転前も反転後も、論証が成立しました。
これにより、元の主張は「反転可能性テストをクリア」し、「正しい」と位置づけることができます。
「そうではない」と思う人の「根拠」
今度は「彼氏が彼女を殴るなんて最低!」だが「彼女が彼氏を殴るなんて最低!」とは言えないと考えている人が、どんな思考をしているかシミュレートしてみます。
- データ:彼氏が彼女を殴った(という仮定)
- 根拠 :男性が女性に暴力を振るうのは最低である
- 結論 :彼氏が彼女を殴るのは最低である
このような根拠を採用している人に、「反転」させたデータを突きつけたらどうなるでしょうか?
- データ:彼女が彼氏を殴った(という仮定)
- 根拠 :男性が女性に暴力を振るうのは最低である
- 結論 :このデータと根拠からだけでは、「彼女が彼氏を殴るのは最低である」という結論は導けない
反転後は、論証が成立しませんでした。
この「反転可能性テスト」が妥当であり「反転して論証が成立しないなら、反転前の主張も誤りである」とするなら、「彼氏が彼女を殴るなんて最低!」も誤りということになってしまいます。
ただし、この場合の「根拠」には、社会通念上かなり危ういものが含まれています。
「男性が女性に暴力を振るうのは最低である」という原則論のみ認め、性別が逆転した場合を認めないのは、明確に男女を差別する考え方です。
「許容されるべき男女差別もある」「暴力の対象としての許容度に男女で差を付けることも、許容されるべき男女差別に含まれる」という考え方の持ち主以外がこの根拠を採用してしまうとしたら、大きな矛盾が発生します。
「彼女が彼氏に暴力を振るうことは許される」と主張しつつ「彼氏が彼女に暴力を振るうことは許されない」と主張する人がいた場合、その人は男女平等な原則を「根拠」としていません。
正しい「反転可能性テスト」では、こういった考えの歪みを明確にすることができます。
「反転可能性テスト」より「根拠チェック」「前提チェック」「原則チェック」あたりに呼び方を変更すべき
ここで、記事のタイトルに戻ってきます。
「反転可能性テスト」という言葉は、指し示す内容が名称からは不明瞭で、内容の説明が明確に整備されている訳でもありません。
ここまで説明してきた内容を認識していない人に
「あなたの主張は反転可能性テストをクリアしていない。よって間違い」
「私の主張は反転可能性テストをクリアした。よって正しい」
などと主張の正否を訴えても、反対論者は「こいつは、なんかよく分からない言葉を振りかざして『自分こそが正しい』と言っている」としか思えません。
ある主張から、一足飛びに「反転させた主張」を準備して、正しいだの間違いだのと議論しても、「正しい反転」がなんなのかのコンセンサスもないのですから、ほとんど意味はありません。
ならば、いきなり「反転させた主張」を持ち出してぶつけるのではなく、「元の主張の根拠」「その主張はどのような原則・前提に基づいているのか」を整理し、「その根拠・原則・前提は、広く適用できる『正しい』ものなのか」を検証した方が、よほど健全です。
この営為を適切に表すとしたら、「根拠チェック」「前提チェック」「原則チェック」あたりになるでしょう。
私は、議論に「反転可能性テスト」という言葉を持ち出すことに反対します。
冒頭の例を「根拠チェック」してみる
では、冒頭で出した「反転可能性テスト」の根拠チェックをしてみましょう。
「性的誇張イラスト」と「性加害」
- 女性のバストを「性的に誇張」したイラストが街中にあるのは、女性にとって性加害と言える。
私は、この主張は不成立と考えています。
上記の例を内包し、かつ社会通念と一致する根拠が、私には定義できません。
例えば、こんな「根拠」を考えてみます。
ある性別の人間を「性的に誇張」した表現が街中にあることは、その性別の人間に対する性加害である
男女の概念を取っ払ったことと、「イラスト」を「表現」にするレベルで抽象化しました。
この「根拠」が、社会通念と一致するかと言えば、全く一致しないというのが、私の考えです。
もしも、「男性器をやけに誇張した男性のイラスト」が街中にあったら、「男性への性加害」となるでしょうか?
私は、男性以上に女性の方が嫌がると想像します*2。
玉袋ゆた……いや、なんでもありません。
「巨乳女性のイラストで喜んでいる層」は「男性器もっこり男性のイラストを嫌がる層」と、あまり重ならないと思われます。
この時点で、「根拠」が不成立となってしまいます。
そもそも、「性的に誇張」という表現が、まるで定義されていない曖昧なものです。
「巨乳キャラの萌え絵」がアウトで、「水着姿・下着姿の女性の写真」がセーフで、「女性目線の創作物(と主張者が感じたもの)」ならセーフで、「男性目線の創作物(と主張者が感じたもの)」ならアウト。
なお、「女性目線」「男性目線」に、創作者の実際の性別は関係がないものとする。
こんな曖昧な定義では、主観と好き嫌いを超えた議論は不可能です。
まともな議論の一環として主張したいのであれば、もっと客観的に定義しないとどうしようもありません。
こんな無理筋な主張をするくらいならば、
- 表現の発表可否は、他者の不快感情に配慮して決める必要がある。
- 私が不快と感じる表現は、配慮の結果として公共の場から取り除かれるべきである。
くらいの根拠を持ち出された方が、まだ議論の余地があります。
もちろん、このような根拠を採用した場合、
「自身の表現を妨害された、表現者の不快感情」
「自身の表現を『公共の場にあるべきではない』と批判する表現を浴びせられた、表現者の不快感情」
「表現を喜んで受け止めていた、需用者の不快感情」
その他もろもろの「不快感情」と対決し、バランスを取る必要があります。
いわゆる「グロ表現」が日本ではかなりの部分規制・自粛されているのも、「グロ表現に対して不快感情を抱く人が多い」ことによる「配慮」のバランスをとった結果でしょうしね。
異性の状況改善など知ったことか
- 「女性より高い男性の自殺率を改善しても、女性には何の利益もないから女性が協力する必要はない」というのは不当である。
私は、上記の「反転可能性テストの結果、当初の主張は不当だ」という結論が妥当と考えています。
「女性より高い男性の自殺率を改善しても、女性には何の利益もないから、女性が協力する必要はない」という主張を抽象化して「根拠」を考えてみましょう。
- 異性集団が抱える問題を改善しても、同性集団には利益がない
- 異性集団に利益を与えることを目的とした行動は、とる必要がない
これらの根拠を採用しないと、「女性より高い男性の自殺率を改善しても、女性には何の利益もないから、女性が協力する必要はない」という主張は正当化できません。
「異性であれば酷い目に遭っても気にならないし、同性集団の幸せは同性集団の努力によって掴む!」という気概を持った方がいる場合、必ずしも前述の「根拠」採用は否定できません。
しかし、もしも、それらの「根拠」を採用する人が「私や同性者が遭っている被害を改善するため、異性であるお前たちが努力しろ」と主張しているのであれば、それは矛盾であり論理的瑕疵であり、ただのわがまま・手前勝手です。
こうして冒頭の「反転可能性テスト」で主張されたとおり、「『女性は男性のために行動する必要がない』という主張は『男性が女性のために行動する必要がない』と主張できない限りは誤り」ということになります。
終わりに
「反転可能性テスト」という言葉が、どれだけ曖昧に使われているかを主張しつつ、その正体を解説し、あらたな名称「根拠チェック」を提唱しました。
この考え方が浸透したら、ネット上のクソ議論の3%くらいは、まともな議論に生まれ変わると思うんですよね。
読者の皆様には、「根拠チェック」という言葉を使えとは言いません。
しかし、相手の主張がおかしいと感じたときや自分の主張を検証するときは「それはどのような根拠に基づくものなのか」考えてみたり、聞いてみたりしてみてください。
自分や相手の主張のおかしさに気付いたり、もっと良い主張を導いたりできるかもしれません。
是非、お試しいただければと思います。
(今井士郎)