「横綱相撲」の義務
ブログを書く時間を作れないでいたので、話題が半月遅れです。3月末、横綱白鵬が千秋楽の取り組みで「変化」をしたため、大いに批判を浴びました。
彼は取り組みが始まると、対戦相手である日馬富士の突進をかわして「変化」。
かわされた日馬富士はそのまま土俵を突き抜けてしまい、白鵬の勝ち。
優勝を決めたこの勝利が、「横綱の品格」に反すると大きな批判を受けているのです。
件の取り組みは私も見ましたが、確かに「横綱相撲」とは対極にあるような内容でした。
私がお客さんでも、「つまらん試合見せやがって」と腹を立てるような気がします。
では、「横綱って、どういう取り組みをするべきなのでしょうか」。
今回は、そんなことを考えてみます。
白鵬批判の中身
白鵬批判の中身は、こんなところでしょうか。気分としては、よ~く分かります。
白鵬擁護派の意見
対する白鵬擁護の意見は、要するに「白鵬はルールに則って最善の取り組みを行っただけである。なんら責められる謂われはない」というものでしょう。これも、理論としては充分に成立しています。
「相撲はスポーツである」
「スポーツであれば、ルールの範疇で全力を尽くせばいい」
ってことですからね。
私の意見
感情的な部分
感情的に、私の意見は白鵬批判派に近いです。横綱相撲って考え方があることは知ってますし、白鵬の態度がそこから大きく外れたものだとも思います。
興業としてみてもクライマックスであの取り組みをされちゃあ、つまらなかっただろうなとも思います。
理論的な部分
しかし、理論として筋道が通っているのは、白鵬擁護派だと思うのです。彼らの言っていることはブレません。
ルールに従い、ベストを尽くせ。
これは、単純明快で強い理論です。
批判者への要望
気分としては、白鵬を責める気持ちが分かるだけに、私から白鵬批判者にお願いしたいことがあります。横綱はどんな相撲を取るべきなのか、もっと理論的に意見をまとめて欲しいのです。
「相撲は神事だ。横綱相撲しろ」
「興業としておもしろい相撲を取れ」
というのは簡単です。
でも、相撲に明るくない人間からすると、その基準が全く分かりません。
意見を異にする相手を説得したいと思うのなら、相互に納得できる前提をスタート地点として、理屈を積み重ねていく必要があります。
もしも「相撲は神事だから」「相撲は興行だから」で説明を終えてしまうとしたら、「だから、何?」としか思えない人間を説得することはできません。
そんな状態でできるのは、「ルールさえ守っていればいい」と考える人達を「無粋な輩」と断じて、一方的に見下すことだけです。
白鵬擁護派に「それなら確かにあの取り組みはまずかったな。白鵬、改めた方がいいよ」と思わせることは不可能でしょう。
一貫した「理論」がないことの弊害
横綱のとるべき相撲を「空気読めよ」で規制した場合、例えばこんな弊害や返しが考えられます。『横綱相撲とは、「真っ向勝負しか許されない」相撲である。横綱は横綱相撲が義務である』とした場合
横綱だけは、「変化」をしてはいけないことになります。そうすると横綱に許された手は
- 相手にかわされるリスクを犯して、一方的に突っ込んでいく→かわされたら大ピンチです。というか、負けます。
- 相手の出方を確認して初めて、前に進む→実力が拮抗した相手からの突進でも、自分の加速前に一方的に受けることになります。いくら横綱でも、そのハンデを常に追い続けるのは、はっきり勝敗に影響してしまうでしょう。
これ、面白いでしょうか? 公平でしょうか?
『興業としての面白さは、勝利を追い求めることに優先する』とした場合
「始めに強く当たって、あとは流れでお願いします」の世界です。そう、八百長ですね。
要するに、相撲のプロレス化*1です。
「面白い試合を見せろ」「だが、真剣勝負しろ」「横綱はそれらしい試合をしろ」と言うのであれば、相反するそれらをどのようにバランスさせるのか、主張者は示すべきなのです。
これを示せない限り、白鵬の行いがアリかナシか、意見の異なる陣営間で、話し合いが成立する余地はないのです。
白鵬批判者よ、頼むから、批判の根拠にもう一歩、踏み込んでくださいよ。
私は、理論的な白鵬批判にこそ同調してみたいんですよ。
(今井士郎)
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これがなければ、いよいよ「ルールに従ってればいいじゃない」と思っていた気がします。
*1:プロレスこそ、「興業の面白さ」のために、競技性を廃した格闘技です