今回言及する問題
人気映画シリーズ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの監督、ジェームズ・ガン監督が、ウオルトディズニー社により解雇され、降板を余儀なくされました。
該当シリーズ、私は視聴したことがないのですが、映画好きの間で非常に評判の高い作品であるという印象です。
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降板の直接の原因は、10年前に監督が投稿した、「政治的に正しくない」ジョーク等のツイートだそうです。
今井のスタンス
私は、今回の降板には反対の立場です。
主な理由は、以下のとおりです。
- ポリティカル・コレクトネス(PC)による「断罪」は、詰まるところ「私刑」である
- 私刑であるから、この「断罪」には歯止めが利いていない
- 歯止めのない「断罪」が、世の中を良くするとは、到底考えられない
ネットには、歯止めの利かない「私刑」が溢れている
これらのトラブル、そして「首謀者」を断罪する情報を、目にしたことはないでしょうか。
- 飲食店アルバイト店員による、冷蔵庫寝そべり等の「不潔な行為」
- 未成年者飲酒ツイート
一時、これらの発露の舞台となったのがTwitterで、「Twitterで自分が不利になる悪行を喧伝する」意味の「バカッター」なる言葉も生まれました。
「バカッター」が見つかった学生は、氏名を始めとする個人情報を特定され、拡散され。就職が取り消されたりといった例もあるようです。
「バカッター」するような人たち、たぶん私とは反りが合わない人だろうと思います。身近にいたら、お互い嫌いあうんじゃないかなぁ……と。
なので、個人の感情で言えば、「バカッター」の人たちが制裁を受けて不利益な目に遭うのは、「嬉しい」と感じてしまう気持ちもあります。下品な表現をするなら「メシウマ」ですね。
しかし、こういった人たちが「無制限・無期限に不利益を受け続けること」が「正しい」かと言うと、大いに疑問があります。……と言うか、それはさすがに「間違っている」と思います。
なぜなら、これは「私刑」だからです。
私刑とは、公権力(司法)の手続きを経ない刑罰です。
手続きを経ない、「気分」によって下される罰なので、容易に暴走します。
法を犯した刑法犯であっても、「どの程度の罰が妥当か」は慎重に、裁判で判断され、判決を超える刑罰は認められていません。
しかし、私刑の対象者が「どの程度の罰を受けるか」「いつまで罰を受け続けるか」は、私刑の実行者が「飽きるまで」と、非常に曖昧かつ不公平です。
刑法犯でも「刑期を満了したら社会復帰」が想定されているのに、法で裁くに値しないはずの人が「無制限・無期限に罰を受け続ける」のは、おかしくはないでしょうか。
「ポリコレ」は、私刑のリスクを多分に含んでいる
ここ数年で、ネット上でも一般的に知られた「ポリティカル・コレクトネス」という概念があります。
説明は割愛しますが、「差別的な表現は差し控えるべし」という思想と考えれば、大きく外してはいないかと。
で、ポリコレを論拠として「私刑」とも受け取れる処分を下された事例が、私の目にとまる範囲で、最近2件ありました。
『二度目の人生を異世界で』という小説作品と、『Rub&Tug』という映画作品を巡るトラブルです。
『二度目の人生を異世界で』のトラブル
こちらの作品は、「作者が過去に、Twitter上で中国・韓国を蔑視する、差別的なツイートを繰り返していたこと」と「作中で、第二次世界大戦における中国人虐殺を肯定的に描いていたこと」が問題視され、アニメ化の中止、小説の販売停止に追い込まれました。
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経緯はこちら。
なお、差別的なツイートについては、指摘を受けた作者が謝罪し、「作中で虐殺を肯定した」という指摘は、限りなく言いがかりに近いものであると判明しています。
『Rub&Tug』のトラブル
こちらは、女優スカーレット・ヨハンソンが「性的自認・身体ともに女性」であるにも関わらず、「性的自認が男性であり、身体的には女性であるトランスジェンダー」を演じることが「トランスジェンダーの活躍の機会を奪っている」と批判を浴び、最終的には降板することとなった、という出来事です。
「批判」と「表現の自由の侵害」の曖昧さ
これらは事実として、「批判を受けて、何らかの表現が差し止めを余儀なくされた事例」です。
批判者は「『批判』という、正当な表現の自由を行使しただけである」と主張します。そうなのかもしれません。
しかし批判者は、これらが「表現の自由の侵害」となるリスクについても、自覚的であるべきではないでしょうか。
表現の差し止めと、そこに至るまでの批判を肯定する意見としては、このようなものが見られました。
- 表現の差し止めは、市場ニーズを見据えた自発的・商業的な判断である。
- 表現者たちは批判を受けて、「表現を差し止める自由」を行使しただけである。
- 上記のとおり、表現の差し止めは表現者の自発的な、自由な判断に基づくものである。
- よって、一連の批判は表現の自由の侵害には当たらない。
そうなのかもしれません。
批判者には、批判する自由があります。
そしてどちらの事例でも、表現者は市場の中で活動しています。
表現は「自発的な、自由の行使として」差し止められたのかもしれません。
しかし私には、「いじめられっ子が転校する自由を行使しただけ。だからいじめには問題ない」という言明との相似に思えて仕方ないのです。
「声の大きさの総和」で弱肉強食を繰り広げる世界
批判と、表現への圧力の「自由」を無制限に認める世界とは、一種の弱肉強食の世界に他なりません。
市場原理全肯定の危険性
表現の差し止めを「市場原理に基づくものだから仕方ない」とする意見。
多くの表現が営利行為である以上、妥当なシーンも多いのでしょうが、非常に危険でもあります。
だって、要するに「少数派意見を肯定した本についてはネガティブキャンペーンを行う」「結果として少数派意見が発表の場を奪われる」という出来事が起きてもても、「『市場原理』に過ぎないので正当」ということですよね?
普通に少数派意見の圧殺が起きそうですが、大丈夫ですか?
実のところ、圧殺する側は必ずしも「多数」である必要すらありません。 「少数派意見を出版しようとすると、スポンサーが出資を停止する」という状況なら、スポンサー(大資本)でさえあれば、表現を圧殺できます。 これを「全面的に肯定」する「市場原理に則っただけだから仕方ない」という価値観を認めるのは、非常に危険だと思いませんか?
弱肉強食を認めたら、多くの表現者は挫折する
お金の話を無視しても、「声の大きい大勢力」であれば、「批判の自由を行使すること」で、気にくわない表現を大いに妨害することが可能です。
ブログ記事、漫画、小説、ツイートの一挙一動に「つまらん」「ふざけるな」「間違っている」と「自由な批判」を続けられたら、大抵は表現を断念しますよ。
肯定的な意見の数倍、「自由な批判」を執拗に浴びせ続ければ、よほどの覚悟がある一部を除き、多くの表現者は筆を折るでしょう。
私なら、そんな中でブログを更新し続けるのは無理です。
表現を批判する自由はあります。
法を犯さない「表現の自由の行使」で、表現は妨害できます。
しかし、このような表現の妨害は、不当であると考えます。
だから、「批判の自由」には、一定の歯止めが必要です。
結論
「批判の自由」を、無制限に肯定すべきではありません。
「誤った表現」があったとしても、それによる不利益には、一定の歯止めがあるべきです。そうでなくては、「誤った表現を行っていた時期がある人間は、謝罪しようと撤回しようと、該当の表現が世間から忘れられない限り、あらゆる名声を放棄しなくてはいけない」という世の中になってしまいます。
本当は、「批判の自由」に「量刑」の概念を導入すべきだと考えています。しかし、定まった線引きはあまりにも困難ですし、実際問題として不可能でしょう。 まずは、「批判の自由にも、歯止めが必要」ということを共通認識にすることから始めてみませんか?
(今井士郎)
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