今日もネットは「表現の自由」論争
前回の記事では、『表現の不自由展・その後』の開催に関する、津田大介氏の発言のおかしさを取り上げました。
一旦「表現の自由」に関する論争の火種供給はストップするかと思いきや、今度は献血呼びかけポスターに対する「セクハラだ」という告発が発生し、またも論争になっています。
インターネットは表現の場であるので仕方ないのでしょうが、みんな、表現の自由が好きねぇ……と思ってしまいます。*1
ちなみに私の宇崎ちゃん騒動に対するスタンスは、以下の通りです。
- 宇崎ちゃんのビジュアルは「性的魅力をアピールしようとしている」とは思う。
- しかし、充分に「表現の自由」の範疇と考える。
- 「否応なしに目に入る度合い」も、世に溢れる「性的魅力を含んだコンテンツ」と比べて高いとは、とても思えない。
- ただし、個人的に「嫌う」人がいるのは当然であるし、「自分が『嫌い』だから他の題材にできないか」という意見には、バランスを見ながら検討する余地もあるだろう。
- 一足飛びに「環境型セクハラだ! 不正義だ!」と「快・不快」ではなく「善悪」の観点で排除にかかる意見には、断固反対する。
森ゆうこ議員の問題に対するスタンスは下記です。
- 森議員は、問題を意図的に混同するな。
- 「質問通告開始時刻に関する事実」「質問通告の完了時刻に関する事実」「質問通告の完了時刻に関する評価」「質問内容の不適切なチャネルへの漏洩有無」「事実を受けた漏洩問題の評価」は全て別問題だ。別々に事実を解明すべきである。
- いずれかの問題で他者の故意/過失が明らかになっても、他の問題における森議員の責任は免責されない。
今回の記事の主眼は、これらの問題の掘り下げではありません。
「表現の不自由展」やら「宇崎ちゃんポスター」やらの問題で賛否を「論争」している人たちが、議論の前提をまるで共有できておらず、「お気持ち」のぶつけ合いになっているシーンが多すぎると感じました。
なので、「おいおい、ちょっと待てよ、まずは議論の『手順』を明らかにしようぜ」という提案記事です。
「表現の自由」を「定義」しよう
確認したい前提
まず、今回の想定読者は、「『表現の自由』は認められるべき」と考えている人たちです。「表現の自由など、認められるべきでない」という方には、今回の内容はズレすぎているので、読んでいただいても、時間の無駄になりそうです。
議論のための「表現の自由の定義」
「表現の自由」が認められる社会で、ある表現の発表が認められるかは、「表現の自由が認められる」という前提に、たった2種類の定義を加えていくことで表現できます。
- 前提として、表現は自由である。この権利は不当に侵害されてはならない。
- <任意の行動>は、表現の自由の侵害である。ただし、<任意の表現>に対しては、このような表現の自由の侵害もやむを得ない。
- <任意の表現>は、原則として許されない。しかし、<任意の属性>を持った表現は、例外的に許容される。
言い換えれば、下記を整理していけば良いのです。
これらが例外・例外・例外と重なり合って「許される表現」や「許される『表現の自由の侵害』」が定義されていきます。
表現の自由は、ブラックリスト方式*2です。
「よっぽどのこと」がない限り、表現はして良いのです。
議論をするなら、これを設定しておくのは大前提です。
これを設定しておかないから、
などという、ふわふわ議論がまかり通ってしまうのです。
こんな状況で建設的な結論を導こうなんて、無理ですよ。*3
「表現の自由」が認められたディストピアの例
上記の構造を取りながら、「表現の自由が皆無」な社会も設定できます。このようにすれば良いのです。
はい、1項めで謳った「表現の自由」が、2項めで一気に吹き飛んで、ディストピアが完成しました。
このくらい極端だと「ディストピアだ!」と一目で分かるのですが、「表現の自由の例外」を「誰かが定義できる」という主張には要注意です。
特定の行政組織が定義できても、まだ危ない。
国会による立法→裁判所による判断 あたりが一番マシなラインだと思いますが、これはバリバリの「権力による表現の制限」なので、濫用すべきではありません。
何らかのシチュエーションで「被害者」になった人には、表現を制限する権力を持たせるべき、とする意見も見かけますね。
- 犯罪被害者は、「犯罪に関わる不適切表現」を定義できる
- 女性は、「女性差別と思われる不適切表現」を定義できる
- マイノリティは、「マイノリティを弾圧する不適切表現」を定義できる
これらは、新たな権力構造を生んでしまう危険が非常に高いので、注意が必要です。
法律にもなっている「表現の自由の定義」の例
前述した構造がとても分かりやすいのが、「名誉毀損(今回は刑事の定義を参照)」を定義した法律です。
- 前提として「表現の自由」は存在するが、
- 公然と事実を摘示し、他者の名誉を毀損する表現(表現の属性)には、刑事罰(表現の自由を制限するための手段、行動)が課される。
- 真実性と公益性が認められれば、免責される。(例外規定)
ね?
という構造になっています。
「表現の自由」の範囲は「マップ兵器」でなくてはいけない
合意への道筋とするために
前述の「表現の自由の侵害」「やってはいけない表現」「例外」は、抽象的に定義しないといけません。なぜなら、これらの前提を説得に使うには「議論の参加者が合意」できるものでないといけないからです。 「宇崎ちゃんのポスターが、赤十字のポスターとして許されない」ことで合意に至るためには、ポスター反対者が「制限されるべき表現の属性」を定義し、ポスター擁護者を説得しないといけません。
反対者「世の中を悪くする表現は制限しなくてはいけない」
擁護者「確かに、世の中を悪くする表現は制限しないといけないな」
となれば、議論を次の段階に進めることができます。
反対者「宇崎ちゃんポスターは、『世の中を悪くする表現』だ。制限しなくてはいけない」
擁護者A「たしかに『世の中を悪くする表現』だ。制限しないといけないな」←説得成功
擁護者B「いや、宇崎ちゃんポスターは『世の中を悪くする表現』とはいえない。制限は不当である」←説得失敗。さらなる議論が必要
「表現の自由」の定義抜きに「宇崎ちゃんポスターは制限されなくてはいけない」と主張したら、「制限は不当だ!」とするポスター擁護者との議論は平行線です。
説得の前提となる「表現の自由の定義」は、議論の相手も同意できるものである必要があります。
自分の好む表現も巻き込まれるかも
提示した「定義」によって
- 表現が制限されたり
- 「不当に表現の自由を侵害した人」扱いされたり
するのは、議論参加者の片方だけではいけません。
エロい女性の描写を規制したくて「性的魅力を訴える表現物は、公共の場所に提示すべきではない」という前提をおいたなら、「性的魅力を訴える表現物」は全て「公共の場所に提示すべきでない」ものとして扱わないといけません。実写の女性もそうですし、性的に魅力的な「男性」を題材にした表現物も、「公共の場所に提示すべきでない」という立場をとらなくては不誠実です。
エロい女性イラストの描写だけを規制したいからと「女性の性的魅力を訴えるイラストは、公共の場所に提示すべきではない」という前提を置くとしたら、それは男女差別的かつ恣意的な言論です。
提示した定義の適用先は、自分の好悪によって、恣意的に選んではいけません。
表現の自由の「定義」を設定してみよう
「問題のある」設定 その1
まずは、「一見良さそうな気もするが、ちょっと考えるとダメだとすぐ分かる」定義を例示してみます。
犯罪行為、反社会的行為を連想させる表現は、公共の場所で提示してはならない。(「やってはいけない表現」の定義例)
この定義を採用するなら、「性的に魅力的な女性」を題材とした表現は、「女性への性加害を連想させる」として排除できるかもしれません。
しかし、少し考えると問題があることが分かります。
「犯罪行為、反社会的行為を連想させる」表現というのは、あまりに広すぎるのです。この定義を採用するのであれば、犯罪を扱ったフィクションの宣伝は、全くできなくなります。
下手をすれば、「ドラッグ・ダメ・絶対」みたいなポスターすら「犯罪行為、反社会的行為を『連想させる』」から排除となるかもしれません。
この定義だと、言論の弾圧になってしまいそうですね。
では、「性犯罪」を連想させる表現、と区切ったら?
それに合意を得るためには、他の犯罪に比べて性犯罪が「特別扱いすべき犯罪」である理由を、周囲に納得させないといけませんね。
「問題のある」設定 その2
今度は「表現の自由の侵害」の定義を考えてみましょう。
「気に入らない表現」をした主催に対して、電話や手紙による抗議を行うことは、表現の自由の侵害である。
愛知県の大村知事が、「あいちトリエンナーレ」への抗議電話に対して採用したスタンスです。
あいちトリエンナーレへの「電凸」は表現の自由の侵害である、として、電凸音声の公開に踏み切りました。(削除済みなんですね)
しかし、これが正当としてしまうと、あらゆる公共表現に対する「市民の意見」の提示が「不当な表現の自由の侵害」と扱われてしまいます。
私は、とても賛成できません。
ぼくのかんがえたさいきょうの「表現の自由と表現の自由の侵害」定義
ここまで書いてきた私が、「表現の自由の侵害」「やってはいけない表現」をどう考えているか、開示しておきます。
かなり「遊び」が大きい定義で、合意形成ができたとしても個別表現の善し悪しはすぐに判定できません。
だって、すぱっと「ここからはOK! ここからはNG!」なんて、簡単に定義できる訳がないですもん。
これが「簡単だ」と思い込んでいる方々は、多少脳天気が過ぎるのではないでしょうか。
- 法で規定された「やってはいけない表現」の定義は尊重すべき。ただし、適宜議論して、過剰な規制は撤廃していく必要がある。
- 表現に対する「好き嫌い」の表明は自由である。ただし、「自由な意見表明」が集中することにより、適切と思われる程度を超える圧力が表現者に加えられる場合は、「意見表明」の量について配慮するのが適切である。
- 事実と異なる内容を、事実であると喧伝する表現は「デマ」である。基本的には訂正されるべきであるし、社会的悪影響の大きさ次第では、法の適用や批判意見の集中によって、積極的に制限されるべきケースもありえる。
- いわゆる「ゾーニング」は、正義の行使としてではなく、「利害対立による調整」と捉えるべきである。
定義の過不足に対するツッコミは受け付けますが、理論の体裁を取っていると認められないツッコミ、侮辱的なツッコミには対応しません。
まとめ
- 表現は「自由」である。制限するなら、制限する側が理路を整える必要がある。
- 表現の自由の制限は、下記の要素を積み重ねることで定義できる。
- 「表現の自由の侵害」となる行動と、例外的に自由を侵害せざるを得ない「やってはいけない表現」
- 「やってはいけない表現」の特徴を持つが、例外的に「やっていい表現」の種類
- 表現の自由の制限は、自分が気に入る表現にも適用しなくてはならない。
- 客観的に「表現の自由の侵害やむなし」という理路が定義できない「不愉快な表現」は、「不正義だから引っ込め」と主張するのではなく、「嫌い」だから「引っ込んでもらうように頼む」のが現実的であり誠実である。
簡単に「解決」できる問題ではありませんが、せめて「議論」の成立する場が増えることを祈ります。
(今井士郎)
- 作者: 福澤一吉
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2018/05/08
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: 丈
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2019/07/09
- メディア: コミック
- この商品を含むブログを見る
- 作者: 丈
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2019/02/08
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
- 作者: 丈
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2018/07/09
- メディア: コミック
- この商品を含むブログ (1件) を見る