短く言うと
- 議論とは「自分の主張」「相手の主張」「合意している内容」のそれぞれを整理していく行為である。
- 「合意している内容」や「相手の主張」から「自分の主張」を論証できれば、論破である。
- 「合意している内容」や「相手の主張」から、「相手の主張の誤り」を論証できれば、論破である。
- 「論破」されないためには、徹底的に「合意」を避け、相手の指摘を無視すればいい。つまり、建設的な議論を避ければいい。
- 建設的な議論をしたいですね……。
■目次
- 短く言うと
- 過去記事「議論をするときの『3つの約束』」
- 今回は「議論に勝つとは何か」
- 議論のモデル
- 2パターンの「論破」
- 議論って、なにをする行為か
- こんなとこも「合意」していかないといけない
- 絶対に「論破」されない方法
- 議論はあまりに難しい
- 誠意なき論者が多すぎる
過去記事「議論をするときの『3つの約束』」
以前、こんな記事を書きました。
建設的な議論をするための必須条件として、下記が必要である、と述べたものです。
- 議論を経て、自分の意見を修正する可能性を常に持つこと
- 相手と合意できる部分を探すのに協力すること
- 人格攻撃は、議論は有利にならないと認識すること
実際に「対話を求めます!」と言ってきた相手に「上記のルールを守ってくれるなら」と言ったところ、「あなたは信用できない」なんのかんのと言って去っていきました。
つまり、当人は
- 今井と議論しても、絶対に自分の意見は曲げない
- 今井との合意点を探ることはしない
- 今井に人格攻撃をしたい
のいずれかだった訳で、変な人を追い払うのには役に立つのではないかと思います。
今回は「議論に勝つとは何か」
今回は、みんな大好き「議論」に「勝つ」というのがなんなのか、図解してみたいと思います。
私が見た限り、誰もまとめていない情報です。
「議論に勝つ」とは何か、という共通認識があれば、世の中の議論の数%は、生産性のあるものになるのではないでしょうか。
議論のモデル
「議論」の構造は、こんなモデルはで表すことができます。
議論は、互いの「主張」のぶつけ合いです。
食い違う主張を、左右に分けて描きました。
主張は、個々の「命題」の集合として形成されます。
そして、議論の前提には、互いに「合意している」命題が必要です。
「合意している」命題は、図の下の方に示してみました。
2パターンの「論破」
正しさの論証
「論破」の第1のパターンであり理想であるのは、
自分の主張が正しいと論証することです。
「論証とはなにか」という話題は、超重要ですが説明していられませんので、下記の書籍あたりを参照していただけると幸いです。
- 作者:福澤 一吉
- 発売日: 2018/05/08
- メディア: 新書
自分の主張が正しいと論証するためには、下記のいずれかが必要です。
- 合意している命題から、自分の主張が導かれることを論証する
- 相手の主張を形成する命題から、自分の主張が導かれることを論証する
例えば、こんな議論を想像してみてください。
A「きのここそが至高のお菓子」
B「たけのここそが究極のお菓子」
A「なんでたけのかが究極なの? チョコ菓子じゃなお菓子にもおいしいのがあるだろ。プリッツとか」
B「は? チョコの使われてない菓子の時点で、至高の菓子たりえない。しっかりチョコを使ってないと」
A「じゃあ、お菓子の良し悪しはチョコの有無で決まる? チョコをいっぱい使ってる方が良いお菓子?」
B「当たり前だろ。あ、スナック菓子でもあるのが必要ね。なにせたけのこが最高なんだから」
A「『スナック菓子』で、『チョコ菓子』でもあって、『チョコをいっぱい使ってる』のが良いお菓子なら、きのこはたけのこよりおいしいお菓子だな。やはりきのこが至高」
B「しまった!?」
Bさんは、自分が提示した「『スナック菓子』で、『チョコ菓子』でもあって、『チョコをいっぱい使ってる』のが良いお菓子」という命題を破棄しない限り、「きのこよりたけのこが優れている」ことを否定できません。
論破されてしまいました。
これは、「相手の主張から、自分の主張が導かれることを論証」したケースです。
もしもAさんが、「チョコをいっぱい使っているのが良いお菓子」に心から賛同していた*1のなら、
「合意している命題から、自分の主張が導かれることを論証」したケースになります。
もちろん実際の議論なら、都合の悪い命題をBさんが撤回してしまえば、議論の再開が可能です。
誤りの論証
論破の第2のパターンであり次善となるのは、
相手の主張が誤っていると論証することです。
相手の主張が誤っていると論証するためには、下記のいずれかが必要です。
- 合意している命題から、相手の主張が誤っていることを論証する
- 相手の主張が、内部で矛盾していることを論証する
例えば、こんな議論を想像してみてください。
A「きのここそが至高のお菓子」
B「たけのここそが究極のお菓子」
A「きのこは、我々が敬愛するCさんが至高と言っているお菓子だぞ? お前はCさんの意見に反対するというのか」
B「ぐ……、お菓子の好き嫌いは個人の好みであって、どれが至高だの究極だの決められるものでもないだろう」
A「ならば、『たけのこが究極のお菓子である』も誤りだな?」
B「しまった!?」
これが「相手の主張が、内部で矛盾していることを論証」した例です。
「合意している命題から、相手の主張が誤っていることを論証」する例は、具体例を挙げなくても大丈夫ですよね?
例は単純ですし、字やモデルにしてみると、「こんなに分かりやすく矛盾した主張をする奴はいないだろ」と思うでしょうが、ツイッター議論でも「2ツイート前の命題と矛盾する命題を提示する」なんて人はよくいます。
誤った「論破してるつもり」
よくある誤った「論破してるつもり」の行動は、
- 自分の主張する命題に基づいて、相手の主張が誤りだと主張する
です。
きのこ派が「チョコが多い方がおいしいのだからきのこの方がおいしい! はい論破~」とか、 たけのこ派が「たけのこの方が売れてるんだからたけのこの方がおいしい! はい論破~」とか。
「私の考えによれば、あはたは間違っている」といくら言っても、論破できるわけがありません。
議論って、なにをする行為か
「論破」に向けて、「議論」でできることはこれだけです。
- 自分の主張を構成する命題を整備する
- 新しい命題を提示する
- 命題を撤回する
- 命題の表現を修正する
- 相手の主張を構成する命題整備を訴える
- 命題の意図を確認する
- 場合によっては修正を求める
- 合意事項を広げる
- いずれかの命題を、「合意している命題」に格上げする
- 時には、事前に合意している命題から、いずれかを取り下げる/修正する場合も
前述の通り、「自分の主張する命題」を増やすだけでは、なんの意味もありません。
基本的には「合意」のフィールドを広げることを目指すことになります。
自分の主張する命題を「合意している命題」にできれば、自分の主張の正しさを論証しやすくなります。
あるいは、「相手の主張する命題」を広げさせて、問題点を探します。
目的が「論破」ではなく「より良い結論を摸索する」議論であっても、「合意の範囲を広げていく」ことは重要です。
こんなとこも「合意」していかないといけない
「誰々が、何々と言った」
「何々に、これこれと書いてある」
といった命題は、議論に登場した時点で「合意されている命題」になるのが理想です。
しかし往々にして、そうスムーズには行きません。
A「きのここそが至高」
B「たけのここそが究極」
A「たけのこがきのこよりおいしいというのか」
B「ああ、たけのこに比べれば、きのこなんて二軍以下だね」
A「なんだと!? きのこが食べられたもんじゃないとは、覚悟はできてるんだろうな?」
B「!? 言ってない言ってない言ってない!!」
議論が白熱してくると、こういうことはよく起きます。
程度問題は議論の中でよく歪むので、注意が必要です。
ある書籍の中に
といった記述があったとして。
ある書籍に「人間が絶滅しないためには、自然環境の保全が大事である」と書かれていた。
と説明するのは、適切です。
しかし、下記はいずれも不適切です。
国語の選択問題でよくある奴ですね。
ある書籍に、「人間は絶滅する」と書かれていた。
ある書籍に、「人間はドードーを絶滅させた」と書かれていた。
ある書籍に、「自然環境さえ保全していれば人間は安泰だ」と書かれていた。
「私の主張は正しい! これが証拠だ!」と出された「証拠」の文献や動画に、証拠となるような情報が含まれていない事は、よくあります。
絶対に「論破」されない方法
誠意ある議論をしているとき、そのモデルは、「場に命題を出しあい、整理していくカードゲーム」のような風景になります。
相互に誠意ある議論をしていれば、正しい命題で合意を勝ち取った方が「論破」できるでしょう。
しかし、誠意を捨てれば、「論破」されない、あるいは「論破」されていないと「言い張る」ことは簡単です。
- 合意の範囲を広げない
- 合意せざるを得ない命題を提示されても、「それは本題ではない」等、合意を拒否する
- 自身の主張の場に、命題を溜めていかない。
- 都度、命題を「自分の主張」からリセットするような対応を行い、矛盾の指摘に取り合わない
「合意している命題」がなければ、「合意している命題」に基づいた論破は不可能です。
「合意に基づけば正しいこと」も「合意に基づけば誤っていること」も論証できません。
また、都度「自分の主張を形成する命題」をリセットしていけば、「自分の主張を形成する命題同士の矛盾」も指摘されません。*2
かくして、誠意ある論者のみが過去の自身の発言に拘束されていき、誠意なき論者は、自身の発言の問題点には取り合わず、相手の揚げ足を取る材料(誠意ある論者の発言=命題)ばかりが場に出ていく、ということになります。
「法律は人の情を反映していないから問題だ。法律違反でなくても問題とみなすべき行為はある」という主張と
「私は法によって裁かれていない。これは私の行為に問題がないという証明だ。私の行為に問題があるというなら訴えればよい」という主張の両方を繰り広げるような人、いますよね……?
議論はあまりに難しい
これまで説明してきたとおり、議論をするには「合意形成」が不可欠です。
「私の主張のこの部分には合意してもらえますか?」
「あなたの主張は、つまりこういうことですか?」
という対話の中で命題を整備していき、ようやく建設的な議論になるのです。
しかし、議論の参加者や聴衆が往々にして求めているのは、
A「私の言うことが正しい!」
B「あなたは間違っている!」
A「なんだと!?」
B「あなたのあの発言とこの発言はムジュンしている!」
A「ぐぬぬ」
くらいの、「気持ちのいい勝利」でしかありません。
「ここには合意してもらえますか?」「あなたの主張はこういうことですか?」とやっているのは、まだるっこしくて爽快感がないのです。
なので、稀に「合意形成できる範囲を摸索しながらの議論」に付き合ってもらえると、「いい人だー!」となってしまいます。
誠意なき論者が多すぎる
「自分の意見」が、過去発言の撤回もなく二転三転する人は多くいます。
そして、そういう人たちは「自分の意見」を主張するとき、意見に与さない人を侮辱したりします。
単に意見を出し、撤回する、という流れであれば、謝罪など要りません。
しかし、意見を出し、意見に基づいて他人を侮辱し、その後に意見を撤回するのであれば、攻撃した相手には謝罪が必要です。
政治家、マスメディア、活動家、ネットに意見を書き込む数多の人々。
「議論」の構造が分かっていない人々も、誠意なき論者も山ほどいます。
少しでも多く、世の「議論」が健全になれば良いな、と思います。
また、私の提示するモデルは、先行研究に基づいて構成したものではありません。
1人で組み立てたものですから、「このモデルには欠陥がある」という指摘も歓迎します。
自信作なので、致命的な欠陥が指摘されたりしたら、かなりショックですけどね。
(今井士郎)
- 作者:福澤 一吉
- 発売日: 2018/05/08
- メディア: 新書