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「ブラックフェイスの禁忌性を分かっていない日本人の人権意識は遅れている」と、欧米白人にだけは言われたくない

年末番組の「ブラックフェイス」問題

すでに年末の恒例番組となっている「笑ってはいけない」をきっかけとして、社会的な議論が発生しました。
ダウンタウン浜田雅功氏が「エディ・マーフィの物真似」と称して顔面を黒塗りにしたシーンがあり、「ブラックフェイス(黒塗りによる黒人容姿の模倣)は、差別的行為である」として、批判が集まったのです。

一方、「黒塗りメイクは差別とは言えない」「表現の自由を奪う、弾圧的な批判だ」という反論も発生しています。

「黒塗りによる黒人の模倣は、不適切か、許容されるべきか」という議論について、確定的な意見は持っていません。
しかし、一点言えるのは、記事タイトルの通りです。

「ブラックフェイスの禁忌性を分かっていない日本人の人権意識は遅れている」と、欧米白人にだけは言われたくない

なぜなら、「ブラックフェイス」が「差別性を持つ」という文脈を生み出したのは、「欧米白人」であるからです。

「表現」と「差別」に関する主張

1. 「外見の模倣」は、ただちに差別ではない

「『他人種の外見を模倣すること』は、無条件に差別か」を考えてみます。

以下のような「外見的特徴」を「真似する」ことは、「他人種に対する差別」でしょうか。

  • 肌の色
  • 髪の色
  • 目の色
  • 二重や一重、つり目や垂れ目といった目の特徴

これらがの真似が無条件に差別なのだとしたら、以下のような行為も「差別的行為」に当たります。

  • 黒髪の持ち主が、髪の色を金髪に染める
  • 「美白」と称して、肌の色を「白く」する
  • 一重の持ち主が、二重になるように手術する
  • 「エラの張った」頬骨格の持ち主が、「エラを削る」手術をする

しかし、これらは全て「お洒落として」「見た目を良くするため」に実施される処置です。お洒落のために上記を実施した場合、通常「差別」とはみなされません。

「他民族の見た目を模倣することは差別である」という主張をした津田大介氏が、「あなたの金髪染色は、差別的行為なのか」という質問をしたツイッターユーザをブロックした件は、象徴的です。

私の主張その1は、以下の通りです。

他民族の外見の模倣は、「ただちに差別」ではない。

2. 「不快に感じる人がいれば差別」は、無条件には肯定できない

表現者に悪意があったかは関係ない。受け取って『不快に感じる人』がいる表現は、無条件で差別なのだ」という主張も見受けられます。

差別問題を論じるとき、「差別と感じる人がいる表現か」というのは重要な論点です。 しかし、「差別と感じる人がいる」=「差別的表現」という等式を認めるわけにはいきません。

上記の理論を認めると、「差別的表現」の定義は、無限に拡大できるからです。

社会的には妥当と思われる表現だって、「不快に感じている人」はいるかもしれません。
「誰かが差別と感じたら差別」なら、
「二次元女性キャラを使った町興し」は女性差別でしょうし、
「町興しのための女性キャラを、女性差別として排除する運動」は、男性差別やオタク差別でしょう。

結局、「差別と感じる人がいる」ことは、ある言動を差別と見なす際の必要条件ではあっても、充分条件ではないのです。

どんなにまともな主張であっても、「不快に感じた、差別だ」と主張することは、できますよ?

私の主張その2は、以下の通りです。

不快に感じる人のいる言動が、「ただちに差別」ではない

3. 「差別的である」という判断による表現の禁止は、常に「表現の自由に対する制限」である

ある表現を、「社会的に受け入れられないもの」だとして、やむを得ず禁止するケースはあります。
しかし、表現を禁止するときは、それが「表現の自由の制限」であることに、自覚的である必要があります。

表現の自由は絶対だ、表現の自由を守れ」という主張と「差別的な表現は許されるわけがない」という主張を平行して展開し、「『差別的な表現』の明瞭かつ説得的な定義」を示さない人がいるとすれば、その人は自分の言っていることを、深く考えてはいないのだろうなと思います。

私の主張その3は、以下の通りです。

「差別的である」ことを理由に表現を禁止することは、ただちに「表現の自由の制限」である。ただし、「やむを得ない制限」はあり得る。よって、冷静な議論が必要である。

4. ある表現が「差別」と見なされるかは、力関係による

先ほどの例にも挙げたとおり、「日本人が、髪を金髪に染めること」は、差別とは見なされません。
それは、「日本人は、欧米人にあこがれている」という前提がある*1からです。

「真似をしたら差別」が発生するのは、真似をされた側が「差別されている」「劣っている」「力関係が弱い」という了解があるからです。

差別の被害者を救済することは必要ですが、救済や保護が過剰になると、「差別・被差別の力関係を、積極的に温存する」危険があると考えます。 私の主張その4は、以下の通りです。

ある表現が「差別」と見なされるかは、登場人物の力関係に影響される。過剰な「差別の排除」は、差別被差別関係の温存につながるのではないか

なぜ、「ブラックフェイス」が差別となるのか

ネット界隈で有名になった、『ミンストレル・ショー』

前述の記事では、「ブラックフェイスは差別である」という理由付けとして、「ミンストレル・ショー」の歴史が紹介されています。

アメリカで、ブラックフェイスの白人が、ステロタイプな黒人を差別的に演じた見世物で、17世紀から20世紀まで続けられていたそうです。

ミンストレル・ショー(Wikipedia)

ミンストレル・ショーを発端として、以下のような論理展開が発生したわけです。

ミンストレル・ショーは差別的であった
ミンストレル・ショーはブラックフェイスを交えて、黒人を差別した
→ブラックフェイスは差別の象徴である
→ブラックフェイスは絶対に許されない。黒人に対する侮蔑や敬意の有無に関わらず。

結局「欧米白人の作ってきた文脈」じゃないか

「○○というフォーマットで差別されてきた」人たちが、「○○というフォーマット」を嫌悪、憎悪するのは、自然な感情です。
しかし、「差別されてきた歴史」さえなければ、彼ら彼女らが「○○というフォーマット」を憎悪することもなかったのは事実です。

現代において「ブラックフェイスという表現」を制限するのは、やむを得ないかもしれません。
しかし、「差別をしてきた」ことによって「ブラックフェイス」に対するネガティブイメージをつくってきた張本人に「今更ブラックフェイスをするなんて、人権意識が遅れている」と言われるとしたら、納得がいきません。

だから、「ブラックフェイスの禁忌性を分かっていない日本人の人権意識は遅れている」と、欧米白人にだけは言われたくないのです。
(今井士郎)

鉄腕アトムでも、「有色人種描写」は問題扱いされたそうですね。「アトラス」の話とか。

*1:金髪に染める人は、「欧米人」とかではなく「金髪」にあこがれている可能性もありますが……、そういうことでいいですよね?