津田大介氏の「お詫びと報告」があまりにも悪文・駄文すぎる
『あいちトリエンナーレ2019』の企画の一部である『表現の不自由展・その後』が、炎上する→脅迫を受ける→展示を中止する という経過をたどり、プロデューサーである津田大介氏が謝罪文を発表しました。
『あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告』
頑張って全文読んだのですが、プロ*1が書いた文章としては「舐めとんのか」という気持ちを抑えられませんでした。
もはや怒りすら感じたので、この記事では
- 「お詫びと報告」記事の何が問題なのか
- 読ませる気のない文章構成
- 説明された事実と、それに基づく主張のおかしさ
について、論じたいと思います。
■目次
「お詫びと報告」記事の、2つの問題
前述したとおり、当該記事の問題は大きく分けて2つです。
- 読ませる気のない文章構成
- 説明された事実と、それに基づく主張のおかしさ
それぞれについて、ご説明します。
読ませる気のない文章構成
前提:「良い文章」の条件とは?
経済学者で『「超」文章法』の著者である野口悠紀雄氏によれば、良い文章とは下記のいずれか、もしくは両方を満たす文章です。
- 面白い文章
- 役に立つ文章
- 作者: 野口悠紀雄
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今回はエンターテイメント的に「面白い」文章を求められてはいませんから、「役に立つ」のが「良い文章」の条件と考えてよいでしょう。
では、あの謝罪文が「役に立つ」条件とは、何でしょうか。
下記のような条件が考えられます。
- 知りたかった事実関係を、新規に知ることができること
- 事実(既知の事実・新規に公開された事実の両方について)に関する津田氏の見解を、新規に知ることができること
- 問題となっていて、謝罪すべきと考えている内容
- 問題となっているが、落ち度はなかったと考えている内容
- (問題とはなっていないが、津田氏が語るべきと考えた内容)
- 事実と津田氏の見解を知ることで、読者が納得できること
これらを満たすことができれば、読者は納得、津田氏もほっと一息付けて、WIN-WINです。
では、当該の謝罪文は、「役に立つ」記事だったでしょうか。
実際の記事の構成
当該記事は、1万字に及びます。
その全体がとくに章立てされていない、段落分けされているだけの散文であり、基本的にはどこになにが書かれているかを、読む前には推測できない形になっています。*2
どうやら「■」で分割して、下記のような構成になっているようです。
- 挨拶
- 「表現の不自由展・その後」準備から展示中止に至るまでの、時系列での経緯
- 経緯の補足「ボランティアの方々にこの展示内容の報告が遅れた件について」
- 問題となった2作品の展示背景
- 謝罪と、2作品に対する自身の評価
- 自身と世間の今後について
せめて上記のような見出しを振ってくれるだけでも、かなり読みやすかったのに。
つらつらと、見出しもなしに話題が転換されていくと、自分が読んでいるのが「枕」なのか「本旨」なのか、「補足」「前提」なのかもわかりません。「さっきまでの話題」は「小休止中」なのか、「もう終わった」のか。
そのため読者は、「前後になにが書かれていたか」に気を使う必要があり、かなりストレスです。
時系列での経緯の中で、アンダーライン(ハイパーリンク)付きでぶっこまれた宮台真司氏の批判の件が好例です。
会期(2019/8/3の展示を最後に中止)前の話の最中に、2019/8/9に発表された記事の話が登場します。
時系列なら時系列で、いったん語りきれよと。あのタイミングで「後日受けた批判」に言及するなら、せめて「『のちに』宮台氏からこのような批判を受けました」等、読者を混乱させない配慮をしなさいと。
前述の「構成」は、PCの広い画面で記事を表示しながら、行きつ戻りつして判断した内容です。当初の閲覧はスマホでしたから、ここまでの分析は無理(面倒すぎる)でした。読者の大半を占めるであろうスマホ閲覧者は、記事の構成が分からずに困惑したのではないでしょうか。*3
後述の通り「事実の説明」と「主張」も支離滅裂にしか感じられませんでしたので、「分かりやすくない」この記事は、「良い文章」ではありません。「ひどい文章」と断じたいレベル。
なぜ、このような文章構成になってしまったのか
このような酷い記事になった理由として、最も安易に考えられるのは津田氏の文章能力が低いということです。
「津田氏は文章能力が低いので、『ジャーナリスト』は名乗れなかった」などと評価するツイートも見かけましたね。
もう一つ考えられるのは、津田氏は、読みやすい文章にしようとは別に考えていないということです。
例えば、「読みにくいが長い記事を『謝罪文』として公開することで、真摯に謝罪している雰囲気を出したい。しかし実際に謝罪している内容はごく一部なので、謝罪とは無関係の水増しがばれないためには、明快な構成にはできない」とか。
「どうせ丁寧に読むのは『自分を批判したい人間』だから、そんな『敵』のために気を遣って、読みやすい記事に仕上げる必要はない」とか。
あとは、「長いほうが、『記事全体に対する公正な批判』がしにくくなる」という動機もあるのではないでしょうか?
具体的な記述のおかしさに、のちほどツッコんでいきますが、大体全部ツッコミどころなので、全部に言及するのは無理でした。
私は、いちブロガーというよりも、いちサラリーマンとして、このお粗末な文章構成に苛立ちと怒りを覚えました。
メールしかり、提案書しかり、日頃、自分の文章を読んでもらうために、どれだけの気遣いが必要か。
「最初に結論を書け」と「いきなり結論のワードを書かれても、分かるわけがないだろう」の間を行き来して、一生懸命「上の人に読んでもらえる文章」を摸索してきました。サマリを付けて方向性を示して、読者が迷子にならないように……。
今回の津田氏の文章には「別に書き手が気を遣わなくても、読者が勝手に頑張るっしょ?」という傲慢を感じました。
非常に、腹が立ちます。
説明された事実と、それに基づく主張のおかしさ
説明された事実・主張には、単体で「おかしいだろう」と感じるものと、「これまでに漏れ聞こえてきた情報と矛盾するのでは?」と感じられるものが混在していました。
気になった事実・主張を抜粋します。ツッコミは後述。
「表現の不自由展・その後」準備から展示中止に至るまでの、時系列での経緯 の箇所から
- 津田氏は、キュレーターとして「表現の不自由展・その後」の開催を提案し、2018年12月に、不自由展実行委員会に展示を依頼した。
- 津田氏は2019年2月と3月の打ち合わせで、不自由展実行委員会に対し、《平和の少女像》については「様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝え」ていた。
- 上記に対し、不自由展実行委員会は「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否された
- 拒否された旨をキュレーターチームや実行委員会事務局に報告したら、「3月に入ってからのアーティストの参加辞退というのは前代未聞で、行政としても前例がない」と言われた。
- そのため、津田氏は「少女像を展示する」「不自由展を実行する」の判断を保留した。
- 作品の選択権は、全面的に不自由展実行委員会が持っていた。
- 津田氏の提案に基づき、複数の作品と、「表現の自由が侵害された事例の記事や年表」が追加されることとなった。
- 別の考え方に基づく「表現の不自由」の実例として、会田誠氏、鷹野隆大氏、ろくでなし子氏の作品を展示することも、議論に挙がった。(誰の提案かは明記されず)
- 会田誠氏の作品展示は、不自由展実行委員会が拒否した。
- 鷹野隆大氏の作品展示は、コンプライアンス的に問題ありとして断念した。(誰の判断かは明記されず)
- ろくでなし子氏の作品展示は、不自由展実行委員会の展示希望作品を優先した結果、スペースが取れなかったので断念した。
- 展示断念による偏りについては「会期中オープンなディスカッションを複数回実施すること」でバランスを取ろうと考えた。
- 不自由展実行委員会の主張である「不自由展実行委員会の選定した作品の展示拒否は『検閲』である」という考え方を、津田氏は支持する。
- 「検閲」が発生してしまうことと「展示リスク」が発生してしまうこと、双方のデメリットを比較して、津田氏は展示リスクをとることを選択した。
- 全体として、準備不足が多数あったことは謝罪する。
経緯の補足「ボランティアの方々にこの展示内容の報告が遅れた件について」 の箇所から
- 津田氏は展示に際する懸念点として、下記を挙げていた。
①展示場で暴れる来場者対策(常駐警備員の契約、来場者が多い日の委員会メンバーや弁護士の常駐)
②街宣車・テロ対策(警察との情報共有、事前のリスク共有、仮処分申請の準備)
③抗議電話対策(録音機能付き自動音声案内の導入、クレーム対応に慣れた人員の配置、回線増強)
- ①の対応はうまくいった。
- ②は、専門家のアドバイスに基づき、県の上層部とも不自由展実行委員会とも確認しながら、「7/31まで展示情報を公開しない」ことで対策とした。
- 上記により、ボランティアへの情報公開が遅れたことは謝罪する。
- ③には、「電話回線を増強」することで対策とした。
- 外部のコールセンターを設けることも検討したが、説明責任(行政がアウトソースを行うことに関して、県民に説明する責任か?)の問題と前例がないことから断念した。
- 抗議電話の件数は、新国立競技場問題の抗議電話件数を元に試算した。
- 抗議したい県民とのやり取りの機会を設けられなかったことは謝罪する。
(「問題となった2作品の展示背景」についてもツッコミどころはあるものの、筆者の気力・体力リソース的に省略。)
謝罪と、2作品に対する自身の評価 の箇所から
- ニコニコ生放送にて、「自分を批判する人は『コロス』リストに入れる」と発言したのは不適切であった。番組視聴者は、アンガーコントロールを知らない可能性があるためである。
- リストを公開する気も、「コロス」を実行する気もないので、リストの作成と「アンガーコントロールとして同リストを作成している」と表明したことは、問題ない。
- 昭和天皇の写真を燃やす作品について「2代前じゃん」と答えたのは、「2代前の天皇なので、写真を燃やしても現行の体制に対する反抗には当たらない」という認識を示したものである。自分にとって、2代前の天皇は歴史的、象徴的存在であった。そうでない人が反感を覚えることについて、配慮不足を反省する。
(以降の津田氏の主張へのツッコミ有無については、筆者の気力・体力リソース的に論旨の整理が困難であったため省略。多分、整理すればたくさんツッコめると思います。)
事実と主張の「おかしさ」ツッコミを入れてみる
前掲した津田氏の主張について、私の見解を述べていきます。
津田氏の説明に対する「ツッコミ」です。
(前述の「事実・主張」の中でも、個別にツッコミ不要と判断した項目は省略しています。「○○については謝罪する」みたいな)
- 津田氏は、キュレーターとして「表現の不自由展・その後」の開催を提案し、2018年12月に、不自由展実行委員会に展示を依頼した。
- 津田氏は2019年2月と3月の打ち合わせで、不自由展実行委員会に対し、《平和の少女像》については「様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝え」ていた。
- 上記に対し、不自由展実行委員会は「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否された。
芸術監督が、自分の責任で実施する展示について意見することを「検閲」とは、おかしいでしょう。
本件については、津田氏を批判する人、支持する人が互いに「『検閲』をちゃんと辞書で引いてみろ!」と言い合っているので、Web辞書ですが引いてみましょう。
公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。いずれも,国民の表現の自由を侵害しやすいので,近代の憲法では,検閲を禁止する条項をおくものが多い。日本国憲法は 21条2項でこれを禁じている。
他の記述を見ても、「公権力」を主体とする発表行為の禁止が「検閲」とされるケースが多いようです。この定義を採用するならば、この時点で津田氏は「検閲」しようがありません。
しかし、同記事内の下記記述には、「個人」による検閲の記述もありました。
思想・表現の公表(文書,写真,映画,放送など)に際し,公権力をはじめ社会的に力をもつ個人や団体がその内容を検査し,不適当と判断した場合に規制を加える(発売・上映等の禁止,変更,削除など)こと。事前検閲と事後検閲とがあるが,一般には前者をさす。近代検閲の歴史は活版印刷など大量の複製技術の成立とともに始まる。日本では明治維新直後の1869年に出版条例が,1875年に新聞紙条例が制定されている。それが明治憲法下でそれぞれ出版法(1893),新聞紙法(1909)として整備・強化され,1917年には映画検閲を目的とした活動写真興行取締規則が警視庁から公布されている。戦時下には言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)なども加わり,とりわけ厳重であった。戦後の現行憲法は明文で禁止している(日本国憲法第21条)
上記を見て「ほら! だから、津田氏が展示内容にケチをつけるのも『検閲』だ!」とするのは、まだ気が早い。
上記2つの引用では言及されていませんが、「検閲」の大前提として、表現の発表を禁止する「外部」からの圧力である必要があるはずです。津田氏は、「表現の自由展・その後」において「外部」だったのでしょうか。表現の「主体者」の一人だったのでしょうか。
私は、津田氏の「芸術監督」という肩書から、彼は「主体者」の一人と考えます。
雑誌の内容について、「編集長が修正を命じる」のは、「自主規制」や「表現者への干渉」ではありますが、「検閲」ではないですよね?
津田氏が展示内容に言及することは「検閲である」という理路を採用するのであれば、「公権力でないイベント主体者の行動が『検閲』となるケース」について、慎重に定義する必要があります。
- 拒否された旨をキュレーターチームや実行委員会事務局に報告したら、「3月に入ってからのアーティストの参加辞退というのは前代未聞で、行政としても前例がない」と言われた。
津田氏の調整が遅い! 判断が遅い!
12月に依頼して、3月になってこの問題が発覚するのは、段取りが悪すぎます。
「表現の不自由展・その後」は、「表現の不自由展」という前例に基づいたものなのですから、分母であるN件の作品の中で「問題になるかもしれない作品」があるなら、最初に調整すべきです。
以降の「準備不足による不手際」とは別に、津田氏は謝罪すべきところでしょう。
- そのため、津田氏は「少女像を展示する」「不自由展を実行する」の判断を保留した。
- 作品の選択権は、全面的に不自由展実行委員会が持っていた。
津田氏による「自分には責任も裁量権もなかった」という責任逃れの記述にしか見えません。
「芸術監督」は、展示の打診以外になんの権限もなかったように見えるのですが、なにを監督されていたのでしょうか。空調の設定温度とか?
- 津田氏の提案に基づき、複数の作品と、「表現の自由が侵害された事例の記事や年表」が追加されることとなった。
あ、ちょっと監督してましたね。
年表の内容が偏っていたかどうかって、SNS投稿に関する表現の不自由があった関係で客観的検証が困難だったのですが、どうだったんですかね?
「展示の裁量は芸術監督にはない」「津田氏に責任はない」という言及。
芸術監督の権限とは。
- 不自由展実行委員会の主張である「不自由展実行委員会の選定した作品の展示拒否は『検閲』である」という考え方を、津田氏は支持する。
- 「検閲」が発生してしまうことと「展示リスク」が発生してしまうこと、双方のデメリットを比較して、津田氏は展示リスクをとることを選択した。
検閲とは。
この主張に賛同できないのは、前述の通りです。
津田氏は「検閲」をどのように定義して「自身の判断が『検閲』になる」と判断したのでしょうか。論理的に伺いたいところです。
なぜ、「展示内容を前日まで公開しないこと」がテロ対策になるのか、記事からは読み取れません。
実際に起きた脅迫は、展示内容の公開から2日程度で発生しました。
ミッション・インポッシブルみたいな周到なテロ計画なら「6月末に情報収集していれば、会期終了(10月)までにテロができたのに! 8/1から準備しても、テロが間に合わない!」ということもあるかもしれませんが、街宣車の押しかけや粗雑なテロに対して、1か月は誤差では?
妨害者への情報提供を1か月遅らせることと、関係者の準備を1か月遅らせることとを天秤にかけて、前者のメリットを優先したという説明に、納得は行きません。
また、情報公開を遅らすべきとアドバイスした「専門家」は実在するのでしょうか。
後述の「警察への相談」の疑惑もあるため、甚だ怪しく感じてしまいます。
- ③(抗議電話対策)には、「電話回線を増強」することで対策とした。
- 外部のコールセンターを設けることも検討したが、説明責任(行政がアウトソースを行うことに関して、県民に説明する責任か?)の問題と前例がないことから断念した。
- 抗議電話の件数は、新国立競技場問題の抗議電話件数を元に試算した。
抗議電話で懸念されるのって、「電話線が塞がる(他の通話が行えなくなる)」ことと、「対応者の手間を取られる」ことですよね。上記の対策では、後者に関する対応が言及されていません。
問い合わせを受け付ける部署に「5人に1つ」の電話回線があるのを、「5人に3つ」に増強した、とか、そういうレベルですよね?
(5人に5つの電話回線がもともとあったなら、「電話回線の増強」はなんの意味もありません)
「情報を公開すれば、テロが起きるかもしれない」という前提で検討していたイベントについて、その程度の認識だったのでしょうか。
全体的に、テロまでも事前に想定した警戒をしていたイベントにしては、トラブルへの対応がお粗末すぎます。
「考えてはいたんだよ!?」と、後付けの言い訳を聞かされているとしか思えません。
「新国立競技場問題の抗議電話件数を元に試算」したのはどの程度で、それをどの程度上回ったのか、あるいは予想通りだったのか、情報を公開してほしいところです。
予想の範囲内だったのであれば、脅迫犯の逮捕によりテロの脅威が当面は去った今、展示再開に何の障害もないではないですか。
そして重要なのが、展示中止において最も重要であったはずのガソリンを持ち込むというの脅迫への対応経緯が、時系列説明にまったく記載されていないことです。
記事の中で脅迫に触れているのは、最後で「逮捕された脅迫犯以外からも、多数の脅迫を受けている」という部分だけでした。
「脅迫のFAXが送られてきて、警察に相談した」が、「匿名化されているため、犯人逮捕は困難」と言われ、「展示を中止」し、「そのあとで被害届を出した」ら、「あっさり犯人が捕まった」んですよね?
なぜ、被害届の提出がここまで遅れたのか。本当に愛知県警に「相談」は行われていたのか。
「相談」が行われていなかったのなら、津田氏が重要な大嘘をついていたということですし、「相談」の経緯が本当ならば、愛知県警の対応が積極的に批判されるべきです。ここは、多くの人が疑問に感じていたはずです。
記事中で本件に関する説明が全く行われなかったのは、あまりにも不誠実と感じます。
この主張は、わけがわかりません。
上記の私の書き方は穿った見方に思えるかもしれませんが、津田氏の記事を読解すると、このようにしか読めないのです。
アンガーマネージメントとして「コロス」リストを作成するのは、方法としてありかもしれません。しかし、「自分を批判する人は『コロス』リストに入れる」と「公言」するのが正当化されると、津田氏は本当に考えているのでしょうか。
「リストを公開しないから」問題ないというのは、「リストに入れた相手にもそれは伝わらず、脅迫的なストレスを与えることはない」という論旨だと思うのですが、津田氏は批判者に対して「ブロック」をしてきた実績があります。つまり「津田氏が『批判者』とみなした人」の情報は、ある程度公開されているわけです。
「『コロス』リストの内容と重複しそうな情報」を公開(リストの全体像はともかく、本人には伝わります)している状態で、「『コロス』リストは公開情報と重複しない」という説明もなく、「『コロス』リストの内容は公開しないから、存在を公言しても問題ない」は、筋が通らないでしょう。
当初は「嫌いな相手のリストアップはアンガーマネジメント協会でも推奨される方法である」といった記述がありましたが、アンガーマネジメント協会に問い合わせが殺到したとのことで削除されました。「『コロス』リストの作成を、アンガーマネジメント協会が推奨しているという誤解」を与えたのが問題で、津田氏は「削除したので、協会への問い合わせはしないでね」という趣旨の追記を行っています。
……えーと、なので、「『コロス』リストの作成は、アンガーマネジメント協会で推奨されているわけではない、津田氏本人のアイデアによる行動であり、問題に関する全ての批判は津田氏に向かうべきである」ということでいいのですよね?
「アンガーマネジメント協会の推奨による方法で、問題ない」という表現で、責任がアンガーマネジメント協会に向かうべきというような発言から「アンガーマネジメント協会は推奨していない。そちらには問い合わせるな」としたら、批判が雲散霧消してラッキー! ってことはないですからね? 全部、津田氏本人の責任に戻ってくるだけですからね? 一応。念のため。
この主張も、わけがわかりません。
昭和天皇の写真を燃やすことに反感を持つ人の多くは「体制への反抗」であることに反感を持つのではなく、「個人としての昭和天皇」や、まさに「(憲法に定められた、日本の)象徴的存在としての昭和天皇」の写真を燃やすパフォーマンスに反感を持っています。
とりあえず謝っては見せているものの、誠実に相手の怒りを分析する気はないのだなぁ、と感じました。
終わりに
引用して重複している箇所も多いとはいえ、この批判記事も1万字を超えました。
「表現の不自由展・その後」に関する津田氏の発言には、常に「支離滅裂だなぁ」「説得力がないなぁ」「論理がめちゃくちゃだなぁ」と感じていたので、そのストレスをぶつけたのが、本記事です。
それでも、ツッコミどころの全てにはとても言及できませんでした。
津田氏の批判者の中には「そうそう! それだよ!」と感じてくださる方もいるのではないでしょうか。
私が氏の記事を誤読している可能性は当然ありますので、下記のような批判は受け付けます。
- 今井の事実認識に誤りがある。○○などという事実はない。
- 「事実・主張」としてまとめている箇所の○○はおかしい。本文には□□と書かれているのだから、××と解釈すべきだ。
- ツッコミの論理展開が、○○という意味で不適切である。
「馬鹿じゃねーの」「よく読め」「ネトウヨ乙」といった中身のない批判は無視しますので、ご了承ください。
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