今日も元気に問答御用

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議論とは何か ~あるいは、今後の議論の大前提として~

今日は、前回予告したとおりのネタで記事を書きたいと思います。
「議論とは何か」って話です。

ネットを見てると最近、多いじゃないですか。
「日本は、軍隊の合憲化を目指して改憲を目指すべきだ」という人には「ネトウヨかよ」と議論を打ち切る人がおり。
「最近の中国・韓国叩きは感情的にすぎないか」という意見には「サヨクかよ」と罵る人がおり。
おおよそ、議論が成り立つような土壌がありません。
完全に閉鎖的なフォーラムだったら違うのかもしれませんが、Twitterではどうしようもありませんね。特に注目されてる人は。
右属性のことを言っても、左属性のことを言っても、誰かしらに叩かれる。
叩く人にとっては、発言内容の「属性」こそが大事であり、その理論的整合性には無頓着に、叩く、叩く、叩く。

私はどちらかというなら右よりの人間だと思います(中学時代、小林よしのりの『戦争論』を読んで、大いに影響されたクチです)が、最近表に出てくる、右がかった人たちのヘイトスピーチの下品さには閉口してもいます。

そこで今回は、「健全な議論とは何か」考えてみたいと思います。

中学時代、こんなことを習いました。
「論理とは、『データ』と『ロジック』により『結論』を導くことだ」
基本的に今回の記事は、このスタンスを肯定する立場の内容です。

「『データ』と『ロジック』により『結論』を導く」、これは一体、どういうことでしょうか。

データ。
これは比較的分かりやすいですね。
「どのような事実があるか」です。

例えば、「集団的自衛権の行使は合憲であると、内閣が閣議決定をした」という事実です。集団的自衛権は認められるべきであるというスタンスの人も、そんなことは認められないという人も、この事実自体に反対はしませんよね?

さて、ここで、「そのような事実があったらどうなるか」という考え方を2つ示してみましょう。

a.集団的自衛権の行使が認定されるということは、自衛隊が戦闘をおこなう確率が急激に上がるということである。具体的には、ゼロ%から100%への上昇である。
b.集団的自衛権の行使が容認されるということは、日本が米国との結びつきを強め、近隣諸国に睨みを利かせられるということである。これまで高確率だった「近隣諸国から戦争をふっかけられるリスク」が大幅に減るに違いない。具体的には、100%からゼロ%くらいへの減である。

aという考え方が正しければ、「安倍内閣は日本を戦争に参加させることを決めた」ということになりますし、bという考え方が正しければ、「安倍内閣は日本を戦争から救った」ということになります。

皆さんは、どちらが正しいと思いますますか?

私は、どちらも正しいとは思いません。
そりゃ、そうですよね?
集団的自衛権の行使を容認しようが否定しようが、そのせいで戦争に巻き込まれる確率が「0%か100%のどちらか」で変動するなんてことはあり得ません。どちらかを断言することができる人がいるとしたら、適当なことを言ってるか、上記とはさらに別の根拠となる情報を持っているか、はたまたその人が未来人かです。

a.集団的自衛権の行使を容認したら、絶対に戦争になる。容認しなければ、戦争は絶対に起きない
b.集団的自衛権の行使を容認しないと、絶対に戦争になる。容認すれば、戦争は絶対に起きない

この二つの「考え方」が、「ロジック」です。

A.だから、戦争が起きる
B.だから、戦争は起きない
というのが、「結論」です。

データ(閣議決定)とロジックa.(集団的自衛権容認=戦争)が正しいと仮定しましょう。
この場合、「戦争は、100%起きます」というのが結論です。
データ(閣議決定)とロジックb.(集団的自衛権容認=不戦)が正しいと仮定しましょう。
この場合、「戦争は、100%起きません」というのが結論です。

私は先ほど、「戦争は、100%起きます」も「戦争は、100%起きません」も、「結論として間違いである」と主張しました。
なぜなら、「ロジック(考え方)」がいずれも極端で、バランスを欠いていたからです。ありていに言えば、間違っているからです。

議論の対象となる「結論」は、「データ」と「ロジック」の結合の結果導かれます。
(議論の内容によっては、「データ」と「ロジック」の区別が曖昧になることもあるでしょう)

データ+ロジック=結論 です。

では、議論とは何か。
「相手の持ち出したデータは誤りであると主張すること、自分のデータこそが正しいと主張すること」
「相手のロジックがおかしいと主張すること、自分のロジックこそが正しいと主張すること」
「相手のデータとロジックからでは、相手結論は導き得ないと主張すること、自分のデータとロジックから、自然に自分の結論が導けると主張すること」
このいずれかです。

先ほどは、「ロジックが誤っている」という例でした。
今度は「データが誤っている」例と「結論の導き方が誤っている」例を考えてみましょう。

データ:
某国が日本に向けて宣戦布告した。
ロジック:
宣戦布告を受ければ、個別的自衛権の行使の観点から、反撃が可能である。主権を守るためには、反撃が必須である。
結論:
日本は戦争に突入する。

ロジックは、100%疑問を差し挟む余地がないわけではないでしょうが、充分に妥当といえます。
データとロジックが正しければ、「戦争突入」の結論も妥当でしょう。
でも、データが間違っています。
今のところ、日本に宣戦布告してきた国は、幸いありません。
だから、当面日本は戦争に参加しません。

今度は、データとロジックは正しいけれど、結論がおかしな例です。

データ:
日本には自衛隊という、軍隊的な組織がある。
ロジック:
全面核戦争が起きれば、人類は絶滅する。
結論:
「つまり! 人類は滅亡する!」
「な、なんだってー!?」

自衛隊は、少なくとも「軍隊っぽい」組織です。データ、正しいです。
全面核戦争が起きれば、人類が絶滅する可能性は充分にあります。
ここまでは、妥当です。
でも、結論が飛んでます。
このデータとロジックから「絶滅する」を導くには、「全面核戦争が起きるっぽいなにか」への言及が必要です。

もう一度確認しましょう。議論とは何か。
いや、ここはもう一つ過激に、「論破とはなにか」にしましょうか。
論破とは、
「相手の持ち出したデータは誤りであると証明すること」
「相手のロジックがおかしいと証明すること」
「相手のデータとロジックからでは、相手結論は導き得ないと証明すること」
この「いずれか」です。
実際のところ、高度な議論をするときには「データ」「ロジック」「結論」の組み合わせが一段階ってことはないと思います。
自分の主張と相手の主張が、どのような「データ」「ロジック」「結論」の構造を持っているか、分析してみましょう。
そして、自分の主張を補強し、相手の主張の穴を見つけましょう。
これは、議論の「コツ」ではありません。「ルール」です。

そして、競技としてのディベートをしているのでない限り、心がけてほしいことがあります。

「より良い政治」や「より良い方法」など、「より良い○○」を求める「議論」の場であるのならば、結論は「データとロジックの組み合わせの結果として、導くもの」と心がけてください。
結論ありきで「意見」とやらを戦わせ、人格攻撃をしあい、相手が自分の意見を採り入れたら「勝った」「ほら、相手が間違っていただろう」、こんな態度で、より良い○○にたどり着けるはずがありません。

「議論」とは、相手を打ち負かすものではありません。
より良い結論を導くための意見交換です。
どうか、そういう態度で「議論」に臨んでくれる人が、一人でも増えますように。

このブログでは、こんな感じのスタンスで、いろんなことへの「意見」を出していければと考えています。

「今井の意見は、このような観点で誤っている」という意見は可能な限り吟味しますが、「間違ってるじゃねーかバーカバーカ」という意見は、相手をできないかもしれません。

ま、相手をするもしないも、議論を持ちかけてもらえるレベルで、読者が現れればなんですけどね。
(今井四郎)