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「私が全責任を取ります!」は、なぜむしろ腹立たしいのか

「私が責任を取りますので大丈夫です」と言われたことはありますか?

昨日の話題の続きです。

西山さんの記事が炎上を起こす前、単に「傲慢だなぁ」とツイートを辿っているとき、こんなツイートも目にしていました。

自分の書いたものに100%の責任を持てない記者 ≒ メディアなんて、二流でしかないんだよ。

傲慢だなぁ。危なっかしいなぁ。嫌いだなぁ。と感じていました。

今回とは全く別件で、個人的に「私が責任を取ります!」と言われたことがあります。

普通に考えると、「潔い」とも考えられそうな台詞なのですが、ただただ腹が立ったことを、ツイートを見ながら思い出していました。

なぜ、「責任をとります」がむしろ腹立たしいのか。考えていたら、その構造が見えてきました。

「責任をとる」時の、二つの方向性

「責任をとる」という表現が使われるのは、「トラブルが起きたとき」か、「トラブルが懸念されるとき」です。

何か、誰かに「加害」をしてしまった場合に、責任問題が発生します。

そして、「責任をとる」と宣言する方向には、二つがあることに気付きました。

  • 身内である、他の「加害者」に対して宣言する場合
  • 「被害者」に対して宣言する場合

自分が「加害者」の立場であれば、別の人が「責任をとる」と宣言のをありがたく感じ、「被害者」の立場であれば、宣言だけされても腹が立つだけなんですね。

公園でキャッチボールする高校球児

こんな風景を思い浮かべてみてください。

多くの親子連れがいる公園です。小さな子供もたくさんいます。

そこに、近所の高校野球チームの監督と、ピッチャー・キャッチャーのバッテリーがやってきました。

彼らは硬球で、全力のキャッチボールを始めました。

選手は監督に、「こんなところでキャッチボールして、大丈夫なんでしょうか?」と聞きます。

選手に対して、監督は言いました。

「大丈夫だ。何かあったら、責任は俺が取る」

選手の立場だったら、少し安心しますよね?

ものをよく考えない子なら全面的に安心するでしょうし、心配性(まともな感性)の子なら、全然安心できないかもしれませんが……。

さて、「流れ玉が当たっては困ります。こんなところでキャッチボールをしないでください」と、親御さんの一人が監督に抗議しました。

抗議した親御さんに、監督は言いました。

「大丈夫です。何かあったら、責任は私が取ります」

どうでしょう?

めちゃくちゃ腹が立ちますよね?

他の加害者(候補)に対して「自分が責任を取る」と宣言することは、「謝らなくてはいけない」「賠償しなくてはいけない」といった加害者の不利益(マイナス)を「ゼロ」にするという宣言です。

他の加害者にとっては、ありがたい宣言です。

では、被害者候補に対して「何かあったら、自分が責任を取る」と宣言することは、トラブルが起きたときの被害者の不利益(マイナス)を「ゼロ」にしてくれるでしょうか?

無理ですよね?

この場合のトラブルとは主に、「ボールが自分や子供に当たって、痛い思いをすること、怪我をすること」です。

不利益(マイナス)を「ゼロ」にするためには、「怪我や痛い思いを、なかったことに」しなくてはいけません。

超能力かタイムマシンでもない限り、不可能です。

いざ、ボールがぶつかるトラブルが起きたら、「謝る」とか、「賠償金を払う」くらいしかできません。被害者が「我慢できる」程度まで被害を回復できるかどうか、というレベルの話であって、被害を「ゼロ」にはできません。

実被害 + 被害感情 を大幅に上回るような、被害者が逆に嬉しくなっちゃうような金額を賠償できるなら、話は違うでしょうが……。*1

「ボールが誰かに当たっても、私が責任を取ります」という台詞は、被害者候補にとっては「怖いだけだボケ!」「いいからあっちに行け!」としか思えない台詞なのです。

記者は、記事に「100%の責任」を持てるのか

今回の話に話題を戻します。

記者が書いた記事が、確認不足で問題化した場合、記者は「100%の責任」を持つことができるでしょうか。

加害者サイドとしては、「100%の責任を持つ」ことも、不可能ではありません。メディアが「当事者である記者以外は、謝罪しない。賠償しない。抗議の窓口にならない」という方策を取ることも可能だからです。

ただし、その方針によるメディアの信用失墜が発生した場合、メディアも「被害」は免れません。

「いい加減な情報を拡散された被害者」はどうでしょうか?

「100%の被害回復」は不可能です。

100%の被害回復とは、「誤った記事を読んだ全ての読者に、記事が誤りであった旨を納得してもらう」または「誤った記事を読んだ全ての読者に、記事の内容を忘れてもらう」ことです。

マスメディアが、「全ての読者を追跡して、訂正する」なんて、不可能ですね。できたら逆に怖いです。そんなメディアに接触したくないです。 では、現実的にありえる「責任をとる」とは、どういう行為でしょうか。

こんな方策があり得ます。

  • 記事を撤回する
  • 記事を訂正する
  • 記事を訂正した旨をアピールする
  • 記事が誤っていたことを謝罪する
  • 被害者への賠償を行う

どれも、「被害の完全な回復」ではありません。被害者が「これなら我慢するしかないか」と納得する……「かもしれない」だけの行為です。

どう転んでも、被害者は「我慢」を強いられます。

つまり、「取材対象からのチェックを受けずに、誤った記事を書いたらどうするんだ!」という問いに「私が全責任を持ちます!」と回答するということは、「取材対象には痛い思いをしてもらいます! 落としどころは、そのあと考えます!」と言っているに過ぎないのです。

まとめ

「自分が責任をとる」というフレーズは、被害者候補に対しては、なんの保証にも慰めにもなっていません。

基本的に、使うのはやめておきましょう。

どうしても使う場合は、責任を「どのように」とるのか明確化しておきましょう。

「トラブルがあったら、記事を取り下げます」とか、「○○という条件で算定した金額で賠償します」とか。

また、自分が被害者候補の時、加害者候補から「私が責任を取ります」と言われても、納得できなければ納得しなくても良いのだ、ということを覚えておいてください。

「自分の書いたものに100%の責任を持てない記者 ≒ メディアなんて、二流でしかない」と書いた記者さんは、取材対象からの告発から丸一日が経過しても、弁解も謝罪も記事の撤回も賠償も、何も行っていないようです。

この問題、どうなるんでしょうね?

(今井士郎)

謝男 1巻

謝男 1巻

*1:500円のバケツにボールを当てて壊しちゃって、ポンと10万円賠償するとか。